2019年06月15日

本当は秘密にしておきたいけど、やっぱり読んで欲しい人間社会学科教員のオススメ本  第17回

書籍名:山田利博(2010)『アニメに息づく日本古典−古典は生きている−』新典社
紹介者:日本語文化メジャー 市原乃奈

オマージュ?
パクリ? 剽窃?
パロディー?
みなさんは、これらの違いをご存知でしょうか。

どれも似ているようですが、「パクり=剽窃」は他人の価値観を崩壊させる犯罪ですが、「オマージュ」と「パロディー」はそれとは違うようです。その違いは、「オマージュ」の場合、「既存の作品を尊敬することで対象となる作品の内容が自然と似てしまう、または、意図的に似せたもの」であるのに対し、パロディーは、「既存の作品の特徴を残しつつ、風刺・滑稽を感じさせるように改変されたもの」ということになるでしょうか。

例をあげると、THE YELLOW MONKEYの「You’re My Best Friend」という曲があります。今年映画でブームが再来したQUEENはわかりますか?この曲は恐らく彼らの「SO YOUNG」に、ものすごく影響を受けていることがわかります。曲の後半は、まさにイエモンがQUEENをオマージュしていると言えるでしょう。

パロディーのわかりやすい例は、みんなが大好きなアサヒ飲料の「ドデカミン」ではないでしょうか。大塚製薬の「オロナミンC」とSUNTORYの「デカビタ」を足して二で割ったようなネーミング。ボトルやラベルもそれぞれのいいとこ取りをしたようなデザイン。さらにキャッチコピーも「ファイトバクハツ飲料」。これは「リポビタンD」の「ファイト一発」と、「オロナミンC」の「元気ハツラツ」のチャンプル!!パクリじゃん!剽窃じゃん!
しかし、お互いの会社でいざこざもないようですし、明らかにパクリっぽさを残している点で、ウケねらいの賜物と言えるかもしれません。

本日私が紹介するこの新書は、古典文学とは一見何の関係もなさそうな現代のアニメや漫画も、実は古典文学と似ているのだ!というメッセージが込められた一冊です。

『美少女戦士セーラームーン』は『竹取物語』、『千と千尋の神隠し』は『古事記』『日本書紀』、『機動戦艦ナデシコ』は『物語の構造分析』(ロラン・バルト)と『オタク学入門』)(岡田斗司夫)から、オタク的要素満載のアニメと「引用」テクニックの関係を和歌の「本歌取り」に共通する「オマージュ」の例としてとりあげています。『宇宙戦艦ヤマト』と『機動戦士ガンダム』そして『新世紀エヴァンゲリオン』という流れで『機動戦艦ナデシコ』が着地点。なんだかすごく納得してしまいました。

『サクラ大戦』は「歌舞伎」をオマージュし、日本アニメ・特撮に見られる「決めポーズ」や「決め台詞」は歌舞伎の「見栄」にあるのではないかと仮説を立てています。
『プリキュア』シリーズは、『美少女戦士セーラームーン』との類似性や差異性をあげつつ、日本古典文学が息づいている部分を探っていくという流れです。

あなたが好きなアニメや漫画も、実は古典文学作品のオマージュかもしれませんよ。
さぁ、この一冊と一緒に日本語日本文化の世界へ旅しませんか?



引用画像

  


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2019年02月26日

リレーコラム | 横関隆登 | 第16回本当は秘密にしておきたいけど、やっぱり読んで欲しい人間社会学科教員のオススメ本

 世界が身近な時代になった。そのせいだろうか、やけに4文字程度のアルファベット文字が目につく。2016年に流行ったペンで刺すやつから増えていったような気がしている。私が専攻する観光学では、TPPPというものがある。これは『Tourism: Principles, Practices, Philosophies』という本の頭文字を起こしただけだ。本書について聴いていただきたい。

 本書は英語で Tourism と掲げられたとおり、観光を主題としている。副題も見てほしい。Principles, Practices, Philosophies と、原理、実践、哲学に着目していることがわかる。もうお分かりのはずであるが、本書は英語で書かれた観光学の教科書なのである。初版が刊行されたのが1971年であった。それ以来、増版を重ね、内容の更新を図ってきた。最新版となる2011年は、12版を数える。私の手元にあるのは2008年の11版である。今回は11版を紹介する。

 著者はコロラド大学名誉教授のゴールドナー博士およびカルガリー大学世界観光教育研究センター議長のリッチー博士である。アメリカとカナダの大学教員が執筆しているが、本書は両国に限らず英語圏の多くの国の大学等で観光を学ぶ際に手に取られる。世界的著名な図書といっても差し支えないだろう。気になる目次については、出版社である John Wiley & Sons, Inc.のウェブサイトにてじっくりご確認いただきたい。この場では構成のみ触れたい。

 本書は6つのパートに分かれる。各パートは論点を示す単位であり、論点の解説は複数の章によって展開される。パート1は、観光の各論に相当するパート2から5までの内容を掴み取るための包括的な観光論が述べられている。パート2からパート5までは、観光主体、観光媒体、観光客体の各要素について、また計画・マーケティング等の操作手段やサービス、ホスピタリティ等の産業といった数多くの論が展開される。こうした各論を総括するパート6で本書は締められる。

 繰り返しになるが、各パートは複数の章によって展開される。盛りだくさんだ。図表も豊富に掲載される。その図表は鑑賞に耐えられる楽しさがあり飽きさせない。しかしページ数に目を向けてほしい。全648ページ。このボリューム感はちょっとした辞書と思っていただいたほうがいいのかもしれない。教科書という性格上、鞄に入れ、持ち運ぶことを想定すると、私の感覚ではエクササイズされる気がしてしまう。しかし、欧米の大柄な学生なら苦にならないのかもしれない。

 本学では観光教育を『新現代観光総論』から始める。この本は論点では紹介本と大差ないと思われるが、図表に乏しい。しかし、持ち運び易さでは圧勝している。世界が身近な時代になっても、この本を手放すわけにはいかない。紹介本に触れることで、この本がそう悪いものではないように思えてくる。

 世界の観光学を感じて『新現代観光総論』を学ぶ励みになれば嬉しい。TPPPは、まさにHHO、YYH、NKOHだと思う。

紹介本
 書 名:Tourism: Principles, Practices, Philosophies
 著 者:Charles R. Goeldner & J. R. Brent Ritchie
 出版年:2008
 出版社:John Wiley & Sons
 ページ:648

紹介者
 横関隆登(観光地域デザインメジャー)
 「観光学Ⅰ」で『新現代観光総論』を解説  


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2017年10月18日

本当は秘密にしておきたいけど、やっぱり読んで欲しい人間社会学科教員のオススメ本 第15回


書 名:模倣の社会学(丸善ライブラリー)
著 者:横山 滋
紹介者:観光地域デザインメジャー 毛利康秀

「今回オススメするのは『模倣の社会学』という本だ。」
「それは、どのような本なのですか?」
「ガブリエル・タルドという、フランスの社会学者が主張した模倣説を紹介した本だよ。」
「しゃ、社会学者・・・もう読む気が失せてもうたわ!」
「社会学者というと難しそうだけど、この本はタルドの学説を分かりやすく解説しているので読みやすいよ。」
「模倣説とは、どのような学説なのですか?」
「一言でいえば『社会は模倣で出来ている』ということかな。」
「も、模倣・・・マネのことだよね。『社会はマネで出来てる』なんて言い切ってええんか?」
「本質をシンプルな言葉で喝破することは珍しくないよ。他の学問分野でも、例えば、物理学では『光の速度は変わらない』という原理で世界を説明している。」
「アインシュタインの特殊相対性理論ですよね。光の速度が変わらないから、時間や空間の方がねじ曲がってしまうって教わったことがあるわ。」
「何それこわい。」
「経済学では『全てのものは商品だ』という考え方で世の中を説明していたりする。」
「マルクス経済学での資本主義社会の説明ですよね。人間の労働力も商品になってしまうと教わったことがあるわ。」
「何それオレも商品ってことなん?」
「マルクスに言わせると、そういうことになるね。要するに、マルクスが『商品』というキーワードで世の中を説明したように、タルドは『模倣』というキーワードで世の中を説明しようとしたんだ。」
「もう少し詳しく知りたいわ。」
「タルドに言わせると、『社会とは模倣である』ということになる。『社会集団とは相互に模倣しあっている人々の集団』とも言っている。具体的な模倣だけではなく抽象的な模倣もある。意識的な模倣だけではなく無意識の模倣もある。反対模倣だって模倣だ。慣習に従うことも、流行に乗ることも、スマートフォンを活用することだって、みんな模倣で説明出来る。社会そのものが模倣に満ちているという、大胆な主張だね。」
「えぇーっ!世の中すべて模倣だなんてあり得んわ!じゃあオリジナルはナッシングってことになるやんけ!」
「もちろん、タルドは『発明』という概念も提示しているよ。その意味では、世の中は『発明と模倣で出来ている』ということになるね。しかし、新しい『発明』と呼ばれるものだって、既に存在しているものを組み合わせただけ、つまりオリジナルの中にもどこか『模倣』の要素が入っていることがほとんどだから、結局、世の中はおおよそ『模倣』の産物であるという帰結になっている。」
「本当かよー。」
「でも、私たちが話す言葉だって模倣といえば模倣だし、新しい小説だって既にある言葉の組み合わせに過ぎないから、タルドさんの言いたいことは分かるような気がするわ。」
「その通り。『創造』と『模倣』は対立するもののように見えるけれども、『創造は模倣から生まれる』という側面もあるんだ。作家だって、画家だって、何かお手本になるものが先にあって、見よう見まねで作るところから始まるしね。」
「そういえば、私も小学生の時にピアノを習ってて、ちょっと作曲してみたことがあったわ。」
「作曲もそうだね。既に別の曲を知っているから出来ることだよね。」
「今度その曲聴かせてよ!」
「タルドの模倣説は今から100年以上前に書かれたものだけど、最近は世界的に再評価が進んでいるよ。インターネットが普及してコピーも拡散も容易になった現代だからこそ、あらためて検討してみたいテーマであると言える。」
「タルドすげー。」
「ちょっと読みたくなってきたわ。」
「まずはこの本を読んでみて、興味が深まったら、タルドに関する別の専門書にあたってみると良いよ。」
「オレもタルドを読んダルド。」
「寒い…とてつもなく寒いわ。」  


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2017年02月06日

本当は秘密にしておきたいけど、やっぱり読んで欲しい人間社会学科教員のオススメ本  第14回

書名:福翁自伝
著者:福沢諭吉
紹介者:日本語文化メジャー 古郡康人

 福沢諭吉は、天保5年12月12日(1835年1月10日)に生れ、明治34(1901)年2月3日に亡くなりました。明治元年(1868年)の以前と以後、ともに33年を生き、20世紀最初の年に歿したことになります。その著『文明論之概略』で、「一身にして二生を経るが如く、一人にして両身あるが如し」と言ったように、徳川幕藩体制から明治天皇制へ、激動の転換期を生きた人生でした。晩年、亡くなる2年ほど前に口述した速記原稿に加筆訂正をして成立したのが『福翁自伝』です。自伝文学の傑作とされるその文章の語り口は次のようなものです。諭吉3歳の時に病死した父を哀惜する箇所です。

《父の生涯、四十五年のその間、封建制度に束縛せられて何事も出来ず、空しく不平を呑んで世を去りたるこそ遺憾なれ。又、初生児の行末を謀り、これを坊主にしても名を成さしめんとまでに決心したるその心中の苦しさ、その愛情の深き、私は毎度この事を思い出し、封建の門閥制度を憤ると共に、亡父の心事を察して独り泣くことがあります。私のために門閥制度は親の敵で御座る。》

 百年以上前の文章ですが、それほど読みにくくはないと思いませんか。
さて、幕末の武士たちは誰もが、勤王か佐幕かという二者択一を迫られましたが、福沢の立場は独自でしかも堅固なものでした。

《世の中の形勢を見れば、天下の浮浪すなわち有志者は京都に集まっている。それから江戸の方では又、幕府というものがもちろん時の政府でリキンで居るというわけで、日本の政治が東西二派に相分かれて、勤王・佐幕という二派の名が出来た。出来た所で、サアそこに至って私がどうするかというに、
第一、私は幕府の門閥圧制、鎖国主義がごくごく嫌いでこれに力を尽くす気はない。
第二、さればとて、かの勤王家という一類を見れば、幕府より尚は一層甚だしい攘夷論で、こんな乱暴者を助ける気はもとよりない。
第三、東西二派の理非曲直はしばらくさておき、男子がいわゆる宿昔青雲の志を達するは乱世にあり、勤王でも佐幕でも、試みに当たって砕けるというが書生の事であるが、私にはその性質習慣がない。》

 ペンは剣よりも強しで、言論の自由に西洋諸国の活力・文明の優位の源を見ていた福沢は、開国以外に日本の進路はないと冷静に判断して、勤王にも佐幕にも批判的だったことがわかります。そして、日本にはまだない欧米の法や制度を理解しようとする、わからないことをわかろうとする、その問題発見力・解決力はすこぶる徹底的です。

《党派には保守党と自由党と徒党のようなものがあって、双方負けず劣らずしのぎを削って争うているという。何の事だ、太平無事の天下に政治上の喧嘩をしているという。サァわからない。コリャ大変なことだ、何をしているのかしらん。少しも考えの付こうはずがない。あの人とこの人とは敵だなんというて、同じテーブルで酒を飲んで飯を食っている。少しもわからない。ソレがほぼわかるようになろうというまでには骨の折れた話で、そのいわれ因縁が少しずつわかるようになって来て、入り組んだ事柄になると五日も十日もかかって、ヤット胸に落ちるというようなわけで、ソレがこのたびの洋行の利益でした。》

 『福翁自伝』の魅力は、近代日本のこよなき先導者であった人物の、人間味にあふれ情理を尽くした明快な考えと行動に触れることができる点にあります。福沢と言えば洋学者の代表ですが、じつは幼年時に培った漢学の占める位置が大きいこと(「春秋左氏伝」を十一回読了!)、若年からの大酒飲みを恥ずかしいと言いつつ後悔はしていない微笑ましい率直さ、緒方洪庵先生への絶対的尊敬信頼の念の純粋さ、他に依りすがらないという独立自尊の気概が万事に貫かれている爽やかさ、等々、学識あり気品ある人間像の魅力満載といった感があります。『福翁自伝』は次のような念願を記して筆を置いています。現代日本でも未だ達成できていない、したがって今後もめざすべき指針だと私は思います。

《私の生涯の中に出来(でか)してみたいと思う所は、全国男女の気品を次第しだいに高尚に導いて、真実文明の名に愧ずかしくないようにする事と、仏法にても耶蘇教にてもいずれにてもよろしい、これを引き立てて多数の民心を和らげるようにする事と、大いに金を投じて、有形無形、高尚なる学理を研究させるようにする事と、およそこの三ヶ条です。人は老しても無病なる限りはただ安閑としてはおられず、私も今の通りに健全なる間は、身にかなうだけの力を尽くすつもりです。》

 『福翁自伝』は岩波・角川ソフィア・講談社学術の各文庫で読むことができます。同じく各種文庫に収録されている『学問のすすめ』もぜひ一読をお勧めします。
  


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2017年01月04日

本当は秘密にしておきたいけど、やっぱり読んで欲しい人間社会学科教員のオススメ本 第13回

書名:方法序説
著者:ルネ・デカルト(訳者:谷川多佳子)
発行所:岩波書店
紹介者:人間社会学科心理メジャー 日比優子

 著者であるデカルトは、私が本学で担当する授業「心理学基礎」の心理学史の回で、必ず紹介する哲学者です。「われ思う、ゆえにわれあり」という彼の言葉を、高校までの授業で学んだ時の印象を学生に聞くと、「難しそう」という感想が多く聞かれます。全6部から構成される『方法序説』の中で、この言葉を取り上げている箇所は第4部のみです。それ以外の箇所は何が書かれているのでしょうか。この本は100頁ほどの短いものです。本を読み慣れた人であれば小一時間で読める分量ですが、内容をすべて理解するには多くの時間を要するかもしれません。

 私がおすすめする『方法序説』の読み方は、まずは一読してみて「なるほど。」と「本当?」と思った一文をそれぞれ見つける方法です。この本には、さまざまな学問に対するデカルトの思いが書かれています。哲学はもちろん、文学、神学、法学、数学、医学、天文学、心理学(とは書かれていませんが内容は心理学)・・それに加え、彼自身が人生を歩む中で考えたことを語っています。実はこの部分が、まだ具体的にある学問に興味をもてない若い皆さんにも、十分楽しめる内容になっているのではと思います。二つほど、私の解釈を加えてご紹介します。

『わたしの第二の格率は、自分の行動においてできる限り確固として果断であり、どんなに疑わしい意見でも、一度それに決めた以上は、きわめて確実な意見であるときに劣らず、一貫して従うことだった。』
 何かに迷った時、とりあえずどこかへ真っ直ぐ進み続ければ、何らかの結論にたどり着くでしょう。着いた場所が、結果的に行きたかった所ではなかったとしても、ずっと迷い続けるよりはましでしょう。

『わたしの第三の格率は、運命よりむしろ自分に打ち克つように、世界の秩序よりも自分の欲望を変えるように、つねに努めることだった。』
 自分のいる環境に不満を言っても仕方がありません。自分で変えることが出来るのは自分だけです。それがわかっていれば、余計なことを考えずに済むかもしれません。

 私が心理学者として「なるほど。」と思った箇所は、
『その原理を哲学から借りているかぎり、これほど脆弱な基礎の上には何も堅固なものが建てられなかったはずだ、と判断した。』
であり、研究者として「本当?」と疑問をもった箇所は、
『わたしは自分がきわめて誤りを犯しやすいことを認めており、・・中略・・それでもなお、人から受ける反論についての経験からすると、そこからはどんな利益も期待できない。』
という一文です。

 デカルトが約380年前の1637年にこの本を発表した当時、哲学の論文は一般的にラテン語で書かれました。しかし、彼は、「女性たちに何かをわかっていただきたいためにフランス語で書いた」と述べています。この本は、専門の哲学書でなく一般教養書なのです。「難しそう」と食わず嫌いせず一度手に取り、デカルトの意見に「なるほど。」だけでなく、「本当?」と疑問をもって欲しいと思います。そして大学入学後、本格的にある学問に興味をもったら、再び読み返してみてください。  


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2016年11月08日

本当は秘密にしておきたいけど、やっぱり読んで欲しい人間社会学科教員のオススメ本 第12回

人間社会学科 林智幸


岸見一郎・古賀史健『嫌われる勇気――自己啓発の源流「アドラー」の教え』(ダイヤモンド社、2013年)

ブログタイトルが「秘密にしておきたい」ですが、今回オススメする本はベストセラーなので、知っている人が多いかもしれません。しかし、やはり、ぜひ、紹介をさせていただきます。

人は、いろいろな対人関係を築く必要がありますが、良き対人関係を築き、続けることは大変です。そのため、「良き対人関係を築く」に関する本がいろいろと売られていますが、その多くは「人に好かれましょう」「人に嫌われないようにしましょう」と述べるものがほとんどです。そのような中で、この本は「嫌われる勇気を持とう」と主張します。

この主張は、この本をある程度読み進めた中で出てくる意見です。本を読まない状態で「嫌われる勇気」のフレーズを見ると、「人から積極的に嫌われる行為をして、人づきあいを避けるべきだ」と書かれているのかと考えてしまうかも知れませんが、誤解です。正しい意味は何かは、実際に本を読み進めて下さい。きっと、今まで皆さんが考えたことがない、「目から鱗が落ちる」論理展開で、人付き合いの考え方を知ることができるでしょう。

ところで、この本のサブタイトルに書かれていますが、アルフレッド・アドラーとはオーストリア出身の精神科医・心理学者です。日本では、昔はほとんど知られていませんでしたが、ここ数年であっという間に有名になり、たくさんの解説本が売られています。この本もその1つで、彼の心理学(思想)である「アドラー心理学」を土台にして、対人関係の心得や人生の生き方が、「青年」と「哲人」の対話形式で解説されており非常に読みやすいものとなっています。

アドラーは自分の心理学を改訂しています。初期は「劣等感の克服」を重要視していましたが、後期には「人は優れたものになりたがる」「未来に向かって、目標を設定して、行動しようとする」など、大幅な変更がされているので、「アドラー」=「劣等感」と覚えた人からすると、この本が解説している後期アドラーの意見は意外なに感じるかもしれません。この本の見出しにも、「承認欲求を否定する」「『あの人』の期待を満たすために生きてはいけない」」「あなたは世界の中心ではない」「叱ってはいけない、ほめてもいけない」など意外性のあるものが目につきます。

どうでしょうか? 内容が気になりませんか? 決して「嫌われる勇気」のタイトルから最初に想像したものとは違った方向で、あなたに驚きを与えてくれます。是非、読んでみて下さい。また、この本には『幸せになる勇気』という続きもありますので、合わせて読まれると良いでしょう。

なお、本学では、私が担当する「教育心理学」などの授業の中でアドラー心理学を解説した授業回があります。この本を読んでアドラー心理学を知りたいと思われた方は、英和に入学して、受講して下さい。  


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2016年08月06日

本当は秘密にしておきたいけど、やっぱり読んで欲しい人間社会学科教員のオススメ本 第11回

運命ではなく(イムレ・ケルテース)
書名: 運命ではなく
著者: イムレ・ケルテース
出版社: 国書刊行会
投稿者: 波多野純(社会心理学)

 ハンガリーの作家イムレ・ケルテースの小説『運命ではなく』は,私が非人間化について研究する中で,強制収容所に関する文献として読んだ作品だった。

 ブダペシュトに住む14歳の少年がナチスの強制収容所に送られ,アウシュヴィッツからブーヘンヴァルトへ,そしてツァイツへと収容されていく物語だが,強制収容所の存在を知らずに移送された少年の視点で書かれている点が新鮮だった。

 プリーモ・レーヴィの『アウシュヴィッツは終わらない』や,ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』などの収容所体験記は,著者(語り手)が成人してからの体験を書いており,自分をとりまく状況についてもある程度の知識をもっていた。しかしこの小説では,直面する1つ1つの出来事が少年の目に明確な輪郭を示さず,後から少しずつ意味づけられていく。

 たとえばアウシュヴィッツに到着した直後,労働の適格性を検査される場面(収容所体験記では有名な場面である)で,主人公は見知らぬ男から「16歳と言え」とささやかれる。意味もわからぬまま彼はそのとおりにウソをつく。本当の年齢を答えていたら即ガス室送りだったと理解するのは,ずっと後になってからである。

 このエピソードのように,彼ら囚人たちは,次々に直面する「いま・ここ」で決断し,生き延びるしかなかった。「時間というものがもしなくて,あらゆる知識がすぐさまいっぺんにその場で僕たちに襲いかかったら,多分僕たちの頭も心も耐えられなかったかもしれない」(p.263)という主人公の認識は,自身が収容所の生き残りである著者ケルテースの実感であろう。

 心理学の研究でも,大きなストレスに直面した人が,認知の範囲を狭めることによって自己を保護することが知られているように,囚人たちは時間のおかげで出来事が分散され,苦痛に満ちた状況から心理的に目をそらすことができていたのかもしれない。

 ただし主人公の少年は,自分の体験が「嫌な出来事や<恐ろしいこと>」ばかりだったかのように要約されることには,強い違和感を覚える。「(囚人の死体を焼いた)煙突のそばにだって,苦悩と苦悩の間には,幸福に似た何かがあった」と確信する彼は,「強制収容所の幸せについて,話す必要がある」とまで考えるに至る。私たちは,1日のうちに,あるいは1週間や1ヶ月のうちに,さまざまな出来事を経験しているが,目に付く1つのことだけに心を奪われがちであることは,感情予測の研究が指摘するとおりである。時間は苦痛から心を護ってくれるとともに,その間の出来事が多様であるがゆえに,幸福であった瞬間を見失わせることもある。

 このように,「時間というもの」が人の心に及ぼす影響を,この小説は繰り返し記述しているように見える。だからだろうか,いま・ここを生きてきた主人公が衰弱し,収容所の中で死に瀕した時,「この美しい強制収容所で僕はもうちょっと生き続けていたいなあ」(p.198)と心の中でつぶやいて,今よりほんの少し先の時間(=未来)を欲しいと願う場面は,この物語の中で例外的であり,もっとも胸に迫るものがあった。そして主人公は,自分の人生を振り返って次のように理解するのである。

「新しい人生を始めることなんてできない,いつもそれまでの人生を続けられるだけだ。…運命とは僕たち自身なのだ」(p.274)

 著者ケルテースは2002年にノーベル文学賞を受賞し(本学が開学した年だ),今年の3月にこの世を去った。
  


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2016年07月14日

本当は秘密にしておきたいけど、やっぱり読んで欲しい人間社会学科教員のオススメ本 第10回

第10回「なぜ疑似科学が社会を動かすのか」(石川幹人,PHP研究所,2016)

人間社会学科(心理メジャー) 永山ルツ子

 「これを身につけると、恋人ができます!」 「これを持っていると金持ちになれます!」
これらのうたい文句を雑誌などで見かけることがよくあると思います。本当に持っていると恋人ができたり、お金持ちになったりするのでしょうか。もしそうなら私もぜひ欲しいです!
 「パワーストーンやお守りを持っていて、良いことが起きた!これをもっていたからだ!」と簡単に決めつけていいものでしょうか。
私たちが過ごすこの日常生活では、良いことも起きるし、悪いことも起きます。それらのほとんどは偶然の事象です。私たちは、他人の評判や偶然の体験に基づいたことから、あっさりと効果を信じることがよくあります。また、どちらかというと、効果がある事例ばかりを信じやすくなります。これは、一種の認知の偏りで、心理学用語では「確証バイアス」といいます。
私たちの身の回りには、一見科学的な効能をうたった商品があふれ、消費者はそのまま信じ購入しています。いわゆる「○○ビジネス」というもので、実際に消費者庁や国民生活センターは注意を喚起しています。実は私も知らずに買った商品・・・結構あります(笑)。
商品だけではありません。日本では、自己紹介の時になぜか自分の血液型を言う方が多いですよね。また、「私はB型だから、○○なんですよね」「あなたはO型だから、○○でしょ?」と相手の性格を血液型でタイプ分けしてしまうことも多々あります。理系の大学の先生でさえ、このようなこと言われる方結構いらっしゃいます。
実は、血液型性格判断も一種の確証バイアスです。例えば、「あなたは、他人の前では強がっていますが、一人の時は弱くなることがありますよね」って言われたとしましょう。ほとんどの人は、「当たってる!」と思い込むと思います。誰にでも当てはまるような内容に対して、自分が特別にそれに当てはまると思い込んでしまうことを、心理学用語では「バーナム効果」といいます。性格と特定の遺伝情報には関係はないことが明らかになっているのですが、つい思い込んでしまうのでしょうね。
この本は、科学的観点から多角的に物事が正しいかどうかを検証してみましょう、というスタンスで話が進みます。科学的と思っていた事象も実は「疑似科学」だと紹介されています。ダマされないためにはどうすればよいか、物事を一義的にとらえるのではなく、多角的に考察してみよう!という科学的リテラシーを持つことは、これからの時代、必要だと思います。
モノがあふれ、情報があふれる今の社会。著者は、自分の体験が正しく判断できるためには、以下の事が必要だとしています。①想像と現実をしっかり区別する ②自分の感情や欲求の由来を知る ③自分の認知や思考のクセを知る ④経験していない記憶が作られることがよくあると自覚する。これらのことを、私の授業「認知心理学」や「心理学研究法」で取り上げています。「偽記憶」「メタ認知」「因果関係と相関関係」など・・・・興味を持った方、英和に入って、ぜひ受講してみてください。
  


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2016年04月09日

「孤独のチカラ」(齋藤孝,2005)-読んで欲しい人間社会学科教員のオススメ本-

読んで欲しい人間社会学科教員のオススメ本
「孤独のチカラ」(齋藤孝,PARCO出版,2005)

人間社会学科 崔 瑛

 一人ぼっちで寂しい思いをすることは誰にだって辛いです。友達がいないと不安になり、自然に人とつるみたくなりますし、学校生活のうえで友達の存在は非常に大きいものでしょう。しかし、友達がいない状態を恐れるあまりに、本来付き合わなくてもいい相手と付き合う人もいるかもしれません。また、孤独な状態を避けるために、貴重な時間に無駄なことをしながら過ごしてしまう場合もあるかもしれません。

 ベンジャミン・フランクリンの言葉のように、「人生は過ごした時間の積み重ね」であり、時間を浪費しないことは、人生そのものの価値をあげ、有意味な時間を過ごせるチャンスを、より多く得られる姿勢になるといえます。

 「孤独のチカラ」の著者齋藤孝先生は、教育学者(明治大学文学部の教授)であり、教育学、身体論、コミュニケーション論等の専門書から、ビジネス書や自己啓発書に至る多数の書籍を執筆しています。その中で、今回紹介する「孤独のチカラ」は「一人でいること」の意味をポジティブに捉え、著者自身の孤独な学生時代からの経験について語りながら、人生に対する考え方や生き方への示唆をわかりやすく伝えてくれます。

 本を読み、勉強をする時間は、孤独になれる時間といえますが、勉強をする時間にも友達と一緒におしゃべりをしながら取り組むことがあり、ついテレビやラジオ、音楽を流しながら気を紛らわすこともあるでしょう。学生達の場合は、友たちや恋人と時間を過ごすことが多く、人に囲まれた環境のなかでは、自分のためだけに過ごす時間はごくわずかに限られます。しかし静かな環境で一人になること、つまり孤独になることは、知的な活動の効率や生産性をぐっと高めてくれます。

 孤独というのは、エネルギーを必要とし、厳しさを伴うものです。若い時期に、このエネルギーをため込んでいき、自分を徹底的に磨く楽しさを味わうこと、そして積極的に孤独を選ぶ単独者になることが必要であると著者は強調しています。

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 自分の中の地下水を汲み上げることは技である。それが自在にできるようになると、ほかの人から見たときにも魅力になる。
 一人きりの時間を利用して、一人でしかできない世界を楽しむ。
 これができれば年齢を重ねた時にも充実した日々が待っている。
 若いうちにこのような孤独の技法を鍛錬しておくことは大切である。
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 ここでいう孤独とは、受動的孤独ではなく、積極的選択による孤独であることが大切です。
 周りの人ともうまくやれるし、自分ひとりになっても充実にできる理想的な一人だけの時間の過ごし方を意味しています。
 本書は、孤独は「辛いものだ」、「避けるべきものだ」という、孤独に対する恐れや固定観念を少し違った角度で見直し、
 自分自身に向き合い、内面の教養を深める濃密な時間、創造の豊かさを与えてくれる時間にさせる、
 ある意味強く生きるための考え方の転換を促すものです。

 暗くて辛い、先の見えない青春の時期。
 しかしながら人生で最も美しく、未来に備えるためのその時にこそ、
 徹底的に孤独を感じ、楽しむことが必要なのではないでしょうか。
 価値ある自分らしい生き方について深く考え、知的な活動に没頭する楽しさを味わっていただきたいです。

 多くの文人や学者らが「孤独の大切さ」をそれぞれどのように考えていたかが本文のなかで紹介されており、
 それを読むのもこの本の楽しみの一つです。皆さんの人生を豊かにするためのヒントを与えてくれるかもしれないこの一冊を、 
 ぜひご一読いただきたいです。
  


Posted by 静岡英和学院大学  at 00:14読書

2016年02月24日

「戦争と近代詩」5 人間社会学科 古郡康人

 皆さんこんにちは。前回取り上げた「わたしが一番きれいだったとき」「知らないことが」の作者茨木のり子(1926~2006)の詩業は、2014年に谷川俊太郎氏の選によって文庫化されました(『茨木のり子詩集』岩波文庫)。この「戦争と近代詩」のシリーズで最初に取り上げた森鷗外は、平凡な日常生活の背後に象徴的な意義を見出すこと、小景を大観することの大切さを説きましたが、茨木のり子もまた、平凡に見える平和がどれほどかけがえのないことであるか、その思いを主体的に持続することの大切さを説いています。次に掲げるのは「それを選んだ」(1966年)という詩です。

    退屈きわまりないのが 平和
    単調な単調なあけくれが 平和

    生き方をそれぞれ工夫しなければならないのが 平和
    男がなよなよしてくるのが 平和
    女が潑剌としてくるのが 平和
    好きな色の毛糸を好きなだけ買える
    眩しさ!
    ともすれば淀みそうになるものを

    フレッシュに持ち続けてゆくのは 難しい
    戦争をやるより ずっと
    見知らぬ者に魂を譲り渡すより ずっと
    けれど
    わたくしたちは
    それを
    選んだ

 そして、詩人は戦争の悲惨さを決して忘れない感受性を持ち続けました。ミンダナオ島で戦死した日本兵の髑髏が、若木に引っ掛けられ、その成長した高い梢で「木の実」と見まがうて発見された事件がありました。次に掲げるのは詩集『自分の感受性くらい』(1977年)に収められた「木の実」という詩の後半部分です。

    生前
    この頭を
    かけがえなく いとおしいものとして
    掻抱いた女が きっと居たに違いない

    小さな顳顬(こめかみ)のひよめきを
    じっと視ていたのはどんな母
    この髪に指からませて
    やさしく引き寄せたのは どんな女(ひと)
    もし それが わたしだったら……

    絶句し そのまま一年の歳月は流れた
    ふたたび草稿をとり出して
    嵌めるべき終行 見出せず
    さらに幾年かが 逝く

    もし それが わたしだったら
    に続く一行を 遂に立たせられないまま

  


Posted by 静岡英和学院大学  at 07:43